「もう平成も終わるね」
いい歳した壮年が集まっての忘年茶会で、だれともなく、そんな話しになりました。
「そういえば、また東京でオリンピックだね」
「そうだね聖火リレー見た?憶えてる?」という話題になり、以外とみんな見ていた事がわかりました。
うふふ、実はそんな年齢です。
地方からきて東京で暮らしているメンバーもいて、どこで見たか、どんな感じだったかで盛り上がりました。
1964の聖火コースは4つあったことを知っていますか
「私が見たのは第4コースですよ」と言いますと、みなさんがどよめきました。
実は1964東京オリンピックの聖火コースは1つではなく、4コースもあったんです。
次回の東京五輪聖火コースが一筆書きの様になっているのとは違って、南と北から2コースづつのスタートだったんです。
なぜ、そんな細かいことを憶えているか?
いえいえ。
私の仕事は雑誌や本の中ページをデザインする仕事なのです。
今、少しづつ1964オリンピックをあつかった企画ページが増えてきているので、その知識があっただけです。
過去のコース図を見ると私が目撃した聖火は、第4コースだったと最近知ったわけです。
そんな話の中、なんと、聖火の最終コースを目撃した方がいました。
ご実家が国立競技場への最終コースに近く、実際に沿道で目撃したそうです。
沿道は犇めく大勢の観客で大騒ぎだったそうです。
「子どもだったから最前線で見えたんだ」
「近所の人が●●の処の子どもがいるぞーって、前に出してくれてさ」と、その方。
「その人が坂井義則さんかどうかは分らないな」とも。
良い時代だったんですね。
私はその場面は、自宅の居間で、家族そろって、テレビ観賞でした。
画面はまだ、モノクロの時代ですよ。
私が目撃したのは、太平洋側を東京に向かったコースだった
1964年の聖火コースは以下の4つに分かれて行われました。
まず、ギリシャから日本までは、11の中継地を経て、9月7日に沖縄に到着しました。
その後、沖縄で聖火リレーが行われました。
日本で始めての聖火リレーは、アメリカ統治下の沖縄だったのです。
沖縄での聖火リレーも話題になりました。
聖火は、沖縄から空輸で九州の鹿児島へ。
ここから4方向に分かれます。
1つは鹿児島から熊本、長崎と九州の西側をまわって福岡、山陰、京都、日本海側から長野に入り東京を目指します。
2つめは鹿児島から宮崎に移動してのち開始。四国、山陽、近畿、東海を経て東京へ。
3、4コースは空輸され、北海道の千歳へ行きます。
ここで活躍したのが、国産プロペラ旅客機の「YS-11」です。
かつて、国産の飛行機があったのですよ。
千歳から3、4コースとも青森に移動し、そこから2手に分かれるのです。
3コースは日本海側、4コースは太平洋側を下り東京を目指しました。
私が目撃したのは千葉から都内に入ってきたコースだったんです。
<東京都立博物館資料より>おおまかな都内コースを色分けしてみました
母が勤めていた会社が国道沿いにあったので、2階からみられたのはラッキーだったと思います。
なにせまだ幼い子どもでしたから、ひしめき合う沿道では揉みくしゃになっていたはずです。
1964聖火コースは中止になった地域がある
残念なことに、この時の聖火リレーで天候のため中止になったエリアがありました。
うろ覚えですが、大阪方面だったと記憶しています。
確か台風が直撃したために中止になったと新聞で伝えられたはず。
調べてみると大阪府の芦屋を通るコースだったようですね。台風で中止になったコース区間の聖火は、車で運ばれたみたいですね。
70人あまりのランナーが中止の決定を受けて無念にも車で運ばれていく聖火を見送ったそうです。さぞ残念だっただろうなぁと思います。
他のコースは、聖火を繋いでいたのですから、、、。中断されたエリアのランナーだった方は今でも思いが残るとお話されているそうです。
オリンピックが終わった後の聖火はどうなったのか?
燃え続けてました。
1964年の聖火は、大会終了後も鹿児島県立青少年研修センターという場所で、「希望の火」という名前で保存されていたそうです。
ですが、これまた、残念な事に2013年に消えてしまったそうです。
しかも2020の開催地が東京に決まったその2か月後の11月に消えてしまったのだとか。
なにか運命を感じますね。