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まいにち

人見絹枝 いだてんで菅原小春が演じるメダリストの過酷な生涯とは?

更新日:

大河ドラマ「いだてん」で、人見絹枝さん役が決まりましたね。なんとダンサーの菅原小春さんです。

後半戦にはいった「いだてん」も、ドラマチックな展開になりそうでわくわくします。

人見絹枝さんといえば、日本女子初のメダリストですよね。

しかも、なんという偶然でしょうか、人見絹枝さんも菅原小春さんも身長が170㎝なんですよ。もしやそれが決定理由ではないと思うのですが、こんな偶然ってあるんですね。

今や4年に一度の男女共にアスリートを応援するスポーツの祭典となる近代オリンピックですが、かつては女性の参加は認められていませんでした。

なにせ、提唱者のクーベルタン男爵が女性の参加に反対していたからです。

そんな時代、日本女子で初めてオリンピックメダルを手にした人見絹枝さんとは、どんな女性なのでしょうか。

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人見絹枝さん 日本女子初銀メダリストのプロフィール

女子陸上100m、200m、走幅跳の世界記録保持者であり、紅い稲妻と呼ばれたアスリート、それが人見絹枝さんです。

そして、多くの偏見と過大な重圧の中で結果を出す事を求められた女性でもあります。

「いだてん」の主人公金栗四三さんもそうですが、新たに道を切り開く人というのは本当に並大抵ではないですよね。

人見絹枝さんは、明治40年に岡山県御津郡で生まれました。ご幼少の頃から活動的なお嬢さんだった様です。

岡山県高等女学校に入学してからは、テニス選手として活躍しました。

その後に陸上選手となり、高等女学校4年の時に岡山県女子体育大会では走幅跳で優勝しています。この時の跳躍距離は、日本記録をこえていました。どれほど凄かったのかわかります。

高等女学校から、東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学し、多くの大会に陸上選手として出場します。そして、日本記録を連発していきます。

驚異の身体能力です。当時の人見絹枝さんの身長は約170cm、体重は約56kgだったと記録にあります。とても長身ですね。当時としてはものすごく背が高い女性だったのでしょう。

卒業後に大坂の新聞社に入社します。女性で新聞社にお勤めだなんて、文武両道の女性だったんですね。

しかし、当時は「女性が足を出すのは、はしたない」というのが一般的な考え方でした。現代で言えばアラブの女性がスポーツを禁じられているのに少し似ていますね。

「(陸上を始めた頃)周りの人々から冷たい目で見られた」と、ご本人が後に語っていらっしゃいますし、批判する手紙がご実家に大量に届けられたといいます。

同じ理由で、当時の短距離走の寺尾正・文姉妹はオリンピック出場を断念しています。日本記録の保持者なのにですよ。難しい時代だったとしか言えませんね。

さて、人見絹枝さんを検索すると「両性具有」とか出てきます。これですが、「両性具有」のうわさがあったのではなく、最近話題のセメンヤ選手に引っ掛けて出てくるみたいですね。

残っている人見絹枝さんの写真を見ればデマってわかります。やさしい笑顔ですよね。

人見絹枝 いだてん メダリスト

サンデー毎日 四十號 (大正15年9月12日号)の表紙より/wikipedia

 

女子版「いだてん」メダルまでの過酷すぎる道 まとめ

人見絹枝さんは、1928年アムステルダムオリンピックに出場します。日本女子選手には初めてのオリンピックです。

なんと人見絹枝さんは、女子の個人種目全て、100mと800mと円盤投と走高跳にエントリーしました。

今のオリンピックでは女子競技は、もっと多様にあるのに、当時はこれだけだったんですね。

人見絹枝さんは、メダルを取るために、目標を100m一本に絞って集中していたといいます。しかし、100m予選は1着で通過できましたが、準決勝では4着になってしまい決勝に出られなかったのです。

やはりその時のプレッシャーは我々の想像を超えたものだったのでしょう。よく「オリンピックには何かが居る」という都市伝説のような文言もあります。これは多分プレッシャーを指しているのでは?と私は考えます。

人見絹枝さんは予選落ちという結果をどう受け止めればよかったのでしょう、また、その絶望感はいかなるものだったのでしょうか?

まさか決勝に進出できないとは思っていなかった人見はすぐさま合宿所に戻り、食事もとらずベッドに入り、声を上げて泣いた。涙はいくらでも出てきた。厳しかった練習を思い出した。あれはいったい何だったのだ。すべての幸せに見はなされた気がした。
出典:笹川スポーツ財団 スポーツ 歴史の検証 オリンピック・パラリンピックのレガシー 人物編

人見絹枝さんは、このまま一睡もできずに朝を迎え、

「負けました! と言って日本の地を踏める身が、踏むような人間か! 何物かを以て私は、この恥を雪ぎ、責任を果たさなければならない」
出典:人見絹枝「炎のスプリンター」

 

凄い強靭な意志を持った女性です。菅原小春さんがここをどんな風に演じるのか今から興味深々です。

そして人見絹枝さんは、本来はキャンセルも考えていた800mへの出場を決めたのです。しかも、人見絹枝さんは800m走った事がなかったのにです。

結果は2位、銀メダルを獲得します。ですが、これはとんでもない過酷なレースになったのです。なにせ人見絹枝さんは、走った事がない長距離を初めて走ったのですから。

ラスト100メートルになったとき、もう優勝間違いなしと思われたドイツのラトケ選手を人見絹枝さんが猛追しはじめます。ゴール前2人が並ぶ展開になったのです。このレースは、1位のドイツのラトケ選手、そして2位の人見絹枝さんが、ゴールした時には気を失って2人倒れ込むという事態になりました。

このレースの様子は、同時にグラウンド内で三段跳び競技に参加していた日本人選手の織田幹雄さんと南部忠平さんもみていて、声援をおくりました。ゴール直後に倒れ込んだ人見絹枝さんをみた織田幹雄さんと南部忠平さんは、三段跳び競技の場所から人見絹枝さんのゴール地点まで走ります。そして2人は人見絹枝さんを助け起こし、彼女の強靭な精神とつかみ取った結果に賞賛を送りました。

ゴールした女性がその場で倒れ込み動けなくなった800メートル走。そのためか女子800mは、1956年のメルボルンオリンピックまで競技種目から外されました。観ている者をも震撼させるヒートレースだったのでしょうね。

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「いだてん」で、菅原小春さんも追いつめられていくのか

人見絹枝さんはどうして、そこまで自分を追いつめたのでしょう。

一説には、アムステルダムオリンピックに出発する時、見送りの一般男性から「金メダルを取らなければ生きて帰ってくるな」などと声をかけられたという話もあります。

これをどういうことかというと、当時の人々にとって女性は足を出しちゃいけない、走るなんてはしたない、けど、絶対に金メダルは取って来いって事なんですよね。

矛盾というか、、、なにそれ、なに言っちゃってるの?っておもいます。ダブルスタンダードってこの事ですよね。

同じ女子メダリストで有名な水泳の前畑秀子さんも同じ様な苦しみを味わっています。

ロサンゼルスオリンピックで、銀メダルを獲得して戻って来た祝賀会で、人見絹枝さんは東京市長の永田秀次郎氏から「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」などと猛抗議をうけ、その後に届く手紙も同じ論調のものばかりだったといいます。

アスリート育てる気あるの?、、、。OTZあぁ、今後の「いだてん」も波瀾万丈なのでしょうか。

人見絹枝さんには、こんな名言が残っています。

いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、日本女子競技会には指一つ触れさせない

これ、名言として残っていますが、酷すぎません、これじゃぁ。

今世界で日本の女子選手が大勢活躍してます。霊長類最強とかいわれた女子選手もいます。

この方達がオリンピックに出場できるのも、先陣を切った人見絹枝さんのお陰なのではないでしょうか。

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ムリをかさねて競技に出場した最後の1年

アムステルダムオリンピックから戻ってからの人見絹枝さんは競技から離れなければならなくなりました。理由はかつてのQちゃんこと高橋尚子選手と同じ、講演会やなにやで練習や競技に出場している暇が無くなったって事です。

日本変わってない、、、。OTZ

そんなことをしていてはアスリートとしては良い事はなく、しかも世間はより一層の成果を要求していきます。過密なスケジュールと重圧の中、競技大会に出場し続けますが、だんだん成績が振るうことがなくなってきます。

そして、重ねてバッシング。日本って、、、。OTZ

1930年5月から9月の間に、内外合わせて8つもの大会に出場させるなんて、アスリート潰す気ですか?と現代ならクレームはいりまくりなスケジュールをこなしています。

しかも、雨の中でも競技に出続け、体調を崩します。

国際大会から帰国しても休む事無く、新聞社の仕事や援助してくださった方への訪問等を続けた結果、人見絹枝さんは倒れてしまいます。

入院した大坂の病院で1931年8月2日に天に召されてしまします。24歳です。悲しすぎます。肋膜炎からの肺炎を併発したのが原因でした。

8月2日は、この3年前にアムステルダムオリンピックの800mにおいて銀メダルを獲得した日でした。ここも「いだてん」でやるのかしら(><)

日本女子初のメダリストの記念碑はチェコのプラハにある

チェコのプラハには、人見絹枝さんの記念碑があります。

これは、プラハの国際大会でも活躍した人見絹枝さんの功績を称えて、チェコスロヴァキアの時代に、プラハの方々がプラハに記念碑を建ててくださったのです。1966年に建てられたその記念碑(銘板)は壁に埋め込まれていて、プラハの美しい風景の墓地なかにひっそりと存在しています。

プレートには人見絹枝さんの名前と最期の日付とその地となった大阪の文字が読み取れます。

人見絹枝 1931年8月2日大阪で死す 愛の心をもって世界を輝かせた女性に感謝を捧げる チェコスロバキア体育協会

碑文より翻訳/出典:笹川スポーツ財団 スポーツ

なぜプラハに人見絹枝さんへ捧げられた碑があるのでしょうか?

それはアムステルダムオリンピックの2年後、プラハでおこなわれた第3回国際女子競技大会に出場した人見絹枝さんの姿が、プラハの人々の心に強く焼き付いていたからです。全力を尽くし競技にむかう遠い国から来た女性の姿、その姿に感銘を受けこの碑はたてられました。時々プラハの方がお花や灯火を捧げてくださっているようです。

人見絹枝さんのお墓が青森県八戸市の本覚寺にもありますが、そのお墓にはチェコの駐日大使がお墓参りにいらっしゃったこともあるそうです。また、岡山県総合グラウンド陸上競技場にもゴールする人見絹枝さんの姿をかたどった像が建てられています。

愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者になる」という言葉を残された人見絹枝さん。

その言葉通りに駆け抜けた人生だったのでしょうか。

そこ「いだてん」でも、どう菅原小春さんが演じてくださるのか期待しています。

 

 

 

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