大河ドラマ「いだてん」で、ダンサーの菅原小春さんが、日本女子初のメダリスト人見絹枝さん役に決まりました。
クールな人見絹枝さんになるか、熱い人見絹枝さんになるかいったいどんな風になるんでしょうか。
期待大です。
実は、人見絹枝さんを調べているとちょっと気になる謎がでてきました。
人見絹枝さんのお墓が出身地ではない、最期の地でもないところにもあるというのです。
そこは東北のとある県。
その謎を調べてみました。
女子版「いだてん」人見絹枝さんの出身地はどこなのか?
人見絹枝さんは数々の女子陸上の世界記録を持ち、紅い稲妻と呼ばれたました。
まさしく女子版「いだてん」ですね。
人見絹枝さんの出身地は岡山なのです。明治40年に岡山県御津郡で生まれました。
人見絹枝さんは、当時の「女性が足を出すのは、はしたない」という一般常識のなかで、陸上競技に邁進した女性でもあります。
岡山の高等女学校から、東京の二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学し、多くの大会に陸上選手として出場します。当時の人見絹枝さんの身長は約170cm、体重は約56kgだったと記録にありますから、当時としてはすごく背が高い女性だったのでしょう。
それじゃぁ、男勝りのスゴイ女性なのかというとそうではなく、優しい笑顔の女性です。
週刊誌の表紙に残っている笑顔がとっても素敵です。
人見絹枝さんは、卒業後に大坂の新聞社に入社します。女性で新聞ジャーナリストだなんて、とても優秀だったんですしょう。
この時点で人見絹枝さんの本拠地は大阪になります。
その後、人見絹枝さんは、1928年アムステルダムオリンピックに出場し、日本女子選手で初めてのオリンピックメダリストになるのです。
日本初女子メダリストの最期の地は大阪でした
しかし、オリンピックの後も、後進の指導や度重なる競技会への出場、新聞社の仕事や援助してくださった方へのフォロー等、休む暇もなく動き続けた結果、人見絹枝さんは倒れます。
入院したのは大坂の病院です。
そして、悲しい事に、24歳の若さで天に召されてしまうのです。
原因は肋膜炎から併発した肺炎でした。
私が大学で教養学部の時、体操をなさっていた体育講師の方から、人見絹枝さんの事をお聞きしたことがありました。
人見絹枝という人は、リラックスしているときの筋肉は驚くほど柔軟で、いざ走る跳ぶとなった時には凄まじく強靭な筋肉となり驚異の瞬発力を出す。同じく運動・体育を行う者には驚くべき、また、憧れの筋肉なのだ、と。
その時は、そんな女性がいたのですね、としか思わなかったのですが、今更ながらどれほど凄いのか感嘆いたします。
では、なぜ、岡山出身で大坂でみまかられた人見絹枝さんのお墓が、一見関係ない東北にあるのでしょうか?
なぜ出身地ではないところにも人見絹枝さんのお墓が?
結論から言いますと、人見絹枝さんのお墓は青森県八戸市の本覚寺にあります。
そこには藤村蝶(テフ)さんという女性の存在があります。この方は人見絹枝さんの看護人として、最後まで側にいて、つきっきりで面倒をみてくれたとても親しい間柄だったようです。
藤村さんの強い希望で、若くしてみまかられた人見さんのご遺骨を分骨してもらったのだといいます。
そして、、ご自分の地元になる青森の本覚寺にある藤村家のお墓に骨塔を建てました。このお墓にはチェコの駐日大使がお墓参りにいらっしゃったこともあるそうです。
八戸市といえば、やはりメダリストの伊調馨さんの出身地でもあり、オリンピックとの縁があるのでしょうか。
人見絹枝さんは、「愚かなりとも、努力を続ける者が最後の勝利者になる」という名言も残しています。
お人柄がしのばれる言葉です。
これからの「いだてん」も、期待してます。